読書の意義

数年前にkindleを購入し、海外からでも手軽に(当時はVPN経由でしたが)日本の書籍を購入できるようになり、以前よりも本を読むようになった。

 

元々、自己啓発・ビジネス系の本は割と好きで、時々買っていました。

とは言え、同じ系統の本ばかり読んでいるとだんだん飽きてくるというか、どの本も本質的には似通ったことを主張してるのだなと思うようになり、徐々に興味が薄れてゆきました。

ただ、特に日本との行き来の飛行機の中でとにかく暇なので、暇つぶしにでもなれば、という思いで小説に手を出してみました。

それまでは、小説の舞台設定とか人物設定を把握するのが面倒くさくて敬遠してきたのですが、実際読んでみるとぐんぐん引き込まれてゆき、夢中になって読んでしまいました。

それからしばらく、読書と言えば小説ばかりの時期もありましたが、そればかりというのにもだんだん飽きてきて、今度はノンフィクションを好んで読むようになりました。

 

ノンフィクションの魅力は、それを通じて人生の疑似体験をすることに尽きると考えます。

中には、過酷な人生を送ってきた方々も沢山おられるようです。

そのような経験と、それを通じてたどり着いた考えは貴重であり、色々考えさせられます。

私は、そのような人生を決して体験したいとは思いませんが、一方で読書を通じて安全圏からある程度の疑似体験ができる、という点にノンフィクションの意義が存在するのだと思いますし、これに感謝します。

 

とはいえ、過酷な人生の話ばかり読んでいると、気が滅入ってくるのも事実です。

そんなわけで、息抜きも兼ねて、また小説に帰ってきます。

小説は大抵の場合話が楽しいですし、その楽しさは漫画を読んでいるときと大差ないように思います。

とは言え、飛行機による長時間の移動を考えた場合、10時間を超える暇つぶしになる量の漫画を機内に持ち込むことは非現実的ですし、容量の問題からkindleに入りきるかも怪しい所です。

また、記憶容量の多いPCを持ち込む手もありますが、当時は離着陸時の使用制限もあって若干のわずらわしさを感じ、漫画よりも小説を好んで読んでいました。

重量・容量・値段当たりの時間つぶしの長さと、読んでいるときの楽さ加減を考えると、飛行機旅における小説の効率はおそらく最高だと思います。

 

といわけで、小説の娯楽としての意義はよくわかったのですが、一つだけ腑に落ちない点がありました。

子供のころから、周りの大人に漫画ばかり読むな、本を読みなさい、と言われて育ってきました。

その本の中には小説も含まれています。

しかし、小説には娯楽的側面があることを考えると、なぜ漫画よりも小説のほうが良いと考えるのか、よくわからなくなってしまいました。(もっとも、本が世に出回り始めたころの大人は、最近の若者は本ばっかり読んでけしからん、と言っていたようですが)

 

これが、最近になって急に腑に落ちてきました。

大抵の小説には、登場人物の心理描写がたくさん含まれています。

どのような状況でどのように考え、何を口にするか、ということは我々が普段の生活の中で常に行っていることですが、他人に関しては、ある状況でその人が何を言ったか、また、どのような態度をとったか、というところまでしかわからないのが普通です。

発言の裏で何を考えていたのかについては、確実に確かめる方法はありません。

 

このように考えた結果、複数の人間の心の中を覗き見ることができる、という点で小説は優れた特徴を持っているものだという考えに至りました。

相手の考えを読む・想像するという視点は、色々な人と接することになる人生の大いなる糧となるでしょう。

そんなところに小説を読む意義があるのではないかと考えています。

 

というわけで、ここで上げた三種類の本に関しては、読書の意味を見出すことが出来ました。

駄目な親

数年前、中学校の同級生と再会した。

しばらく談笑した後、することもなくなったので本屋に行って思い思いに本を買った。

彼女の買った本は、はっきり覚えていないが、いかに子供にいうことを聞かせるか、もしくは言うことを聞かない子供、というようなタイトルの本だった。

あろうことか、彼女はその本を子供の手に届く所に置いたまま外出してしまった。

その当時は、軽率な人だなぁ、この人はダメな親だなぁと漠然と考えていた。

実際、彼女は今でも子供を押し付けてコントロールすることに躍起になっているようで、正直その子供には同情してしまう。

 

あれから暫く経って、なぜ彼女が駄目な親なのか、もう少し具体的にわかるようになってきた。

数か月前、中間管理職で苦しんでいる知人と話をした。

その話の結論は、他人を変えることがいかに難しいか、もしくは、場合によってはいかに非現実的か、一方で自分を変えることはそれに比べていかに簡単か、ということだった。

 

彼女は、当時30代半ばだった。若さに満ち溢れる年齢ではないが、これからいくらでも自分を変えて行ける年齢である。

それにも関わらず、他を変えることに注力し、己を変えることは放棄していた。

そのような人間に、いくら変われと言われたところで納得はいかないだろう。

親は、口で語るのではなく背中で語るべきだ。

 

子供にこうなってほしいという思いがあるならば、自らがそうなる姿勢を見せて、そこでようやく出発点に立ったと考えるぐらいが妥当だろう。

ましてや、これだけ言っているのに子供が言うことを聞かない、自分は不幸だと結論付けるのは言語道断である。

口で言うだけで、姿勢を見せないのだから、それは当然の帰結と考える。

 

不思議な感覚

私は現在、とある外国において会社勤めをしています。当然のことながら日々ともに仕事に励む上司・同僚がいます。

中でも、直属の上司ともう一人の男性については、不思議な感覚を覚えます。上司からは兄の存在を、もう一人の男性からは父の存在を感じます。

もちろん彼らは血の繋がった家族ではなく、 私の家族は彼らとは別に存在しています。

しかし、私は彼らと一緒に仕事に取り組み、互いの相乗効果によって不可能だと思われた問題をいくつか解決してきました。このような相乗効果そのものから得られた結果については、達成感とともに心からの喜びを感じていますが、一方でそれだけではなく、仕事を離れても彼らと接することにより何とも言えない心の安らぎも感じています。

もしかすると、私の物理的な意味での家族はあくまでその存在の影響が最も色濃く出ている人間であって、その実体の全ては反映されておらず、残りの部分が血の繋がらない他人に分散されているのではないか、そして、その分散した先が私の現在の上司やもう一人の男性に宿っているために彼らから兄と父の存在を感じるではないかと、ここのところ考えています。

彼らに対して、私は明らかに特別な感情を抱いています。これが勘違いではなく、真実であればいいなと思っています。

しかし、もしこれが正しいとすると、自分自身についても同じことが当てはまるはずです。つまり、現実世界において認識および同定可能な自分自身はその本来の姿全てではなく、その一部もしくは一側面を最も濃く反映している存在だと考えることができます。そして、残りはおそらく世界のどこかに飛び散っていることになります。だとすると、私がこれまで信じてきた自分自身とは、絶対的な真実ではない、しかし、それから遠くはないもののその全てではない何かということになります。

これが真実なのかどうか、現在のところ私には判断つきかねます。肯定するにしろ否定するにしろ、それに足りうる根拠には今のところ辿り着いていません。

 

差し当たっては、この答えを今後の人生において探してゆくことになりますが、彼らの存在が、このような、私にとって面白い疑問を与えてくれたことに対してやはり不思議な感覚を禁じえません。